『入浴福祉新聞 第11号』(昭和60(1985)年4月25日発行)より
過去の入浴福祉新聞に掲載された記事をご紹介します。
発行当時の入浴や福祉等の状況を少しでもお届けできたら幸いです。
お風呂あらかると 湯屋内暴力
明治5年に東京府は「熱キ湯ニ入ルナ」と浴場に掲示するようにした。
が、なかなか守れず、浴槽を2つに分け、熱い湯に入る者は料金を高くしようといった妙案も出たそうだ。
世界一熱い風呂を好む日本人の悪習を語るエピソードだが、そうなってしまった理由はいろいろある。
①あまり風呂に入れなかった時代、熱い湯で肌をふやかし、久々に思いきって垢を取ろうとしたため
②集団入浴による雑菌の繁殖と感染の防止を期待して熱くした
③ポッカポカに温まって冬の暖房も兼ねた
などである。
もうひとつ忘れてならないのは、江戸時代に乱暴もだいぶはたらいた“いなせな兄さんたち”の存在だろう。
当時、ガラの悪さも度胸も天下一、といわれた町火消の鳶の人たちは、燃えさかる火の中はもちろん、ぐらぐら煮えたつ湯の中だってザブンと飛び込むくらいが自慢だった。だから、一般の町人が湯船を水でうすめようものなら、鉄拳の2つ3つ飛んだに違いない。
威勢がいいというのか粗野というのか、そうした人たちが多かった日本橋魚河岸の若衆たちも“タコは真っ赤にゆだって一丁前”をまねたらしく、熱い湯好きをプライドとした。
江戸の川柳はこうした“銭湯内暴力”をちゃんと批判していて、『町内の憎まれ者があつ湯好き』とある。
しかも猛者だって生理的に限界があるから『5,6杯(水を)入れろとエビがどなる』と冷やかされてもいる。
いま以上に江戸の湯は熱かったから老人はたまらない。
『念仏に力を入れて湯に沈み』の川柳は、気持ちよくて極楽を思ったのではなく、熱過ぎて死ぬ覚悟で入ったと解釈すべきだろう。
快適温なら音痴でも歌いたくなるのは現代も江戸もかわらない。
『湯屋の唄垢の抜けない声ばかり』というのも残っている。
(久)
※発行当時の原稿のまま掲載しております。何卒ご了承の程お願い申し上げます。
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